教えのやさしい解説

大白法 502号
 
供  養(くよう)
「供養」とは「供給(くきゅう)奉養(ぶよう)」の意味で、報恩のために仏法僧の三宝に対して財物(ざいもつ)などを供(そな)える行為をいいます。
 供施(くせ)・供給、略(りゃく)して「供(く)」などともいいます。
 供養については諸(もろもろ)の経論(きょうろん)に種々説かれています。今、主(おも)なものを挙(あ)げてみますと、
○「二種供養」。『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』等に説かれている供養で、ここでは香華(こうげ)・飲食(おんじき)などの財物を供養する利供養と、教説のごとく修行して衆生を利益する法供養が説かれています。
○「三種供養」。『十地経(じゅっちきょう)』等に説かれている供養で、香華・飲食を捧(ささ)げる利供養、讃歎(さんたん)恭敬する恭敬供養、そして仏法を行ずる行供養が説かれています。
○「四事(しじ)供養」。『増一阿含経(ぞういつあごんきょう)』に説かれている供養で、飲食・衣服(えぶく)・臥具(がぐ)・湯薬(とうやく)の四つをいいます。
○「十種供養」。『法華経』の『法師品(ほっしほん)』に説かれている供養で、華・香・瓔珞(ようらく)・抹香(まっこう)・塗香(づこう)・焼香・ぞう蓋(がい)・幢幡(どうばん)・衣服・伎楽(ぎがく)等の十種の供養をいいます。
 この他にも種々説かれていますが、天台大師は『法華文句(もんぐ)』で、礼拝(らいはい)の身業(しんごう)供養、称讃(しょうさん)の口業(くごう)供養、相好(そうこう)を想念(そうねん)する意業(いごう)供養の三業供養を説いています。
 さらに『摩訶止観(まかしかん)』では、「布施行(ふせぎょう)に事(じ)と理の布施が具(そな)わる(中略)事とは慳貪(けんどん)の物を破(は)してよく財物を布施する財施、理とは慳貪の心を破してよく法を布施する法施である」というように、「事・理の供養」を説いています。
 日蓮大聖人は『白米一俵(はくまいいっぴょう)御書』で、天台の「事理の供養」を受けて、独自(どくじ)の御教示(ごきょうじ)をされています。
 同抄(どうしょう)に、仏法では第一の財(たから)、すなわち自分の命を仏に供養してこそ成仏ができると説かれてきた。しかし、凡夫(ぼんぷ)には、このような命を捧げる供養は難(むずか)しいので、凡夫には凡夫としての供養のあり方がある。すなわち、凡夫は、「こころざし」という、真心の信心の供養によって成仏ができる、と明かされています。
 同抄に、
 「たゞ一つきて候(そうろう)衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。うへ(飢)たるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢ(臂)をやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいを(劣)とらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう、凡夫のためには理くやう」(御書一五四四ページ)
と仰せのように、末法の凡夫は、過去に仏の恩を報ずるために自らの臂(ひじ)を焼いた薬王(やくおう)菩薩や、法を求めて自らの命を鬼に捧げた雪山(せっせん)童子の「事供養」には到底堪(た)えられません。しかし、これら聖人と同様、命それ自体ではなくとも、それを失(うしな)えば生活の維持(いじ)が困難(こんなん)である衣や食を仏に供養する「理供養」の「こころざし」によって、成仏の功徳を積むことができるのです。
 私たちは、御本尊を信じ奉り、真心の御供養を心掛(こころが)け、さらに折伏に精進していくことこそ真の供養と心得(こころえ)ましょう。